2013年12月14日

黒猫の運ぶモノ。

記憶も感情もなくしてしまってレハトを支えるタナッセの話
長編です



 アネキウス歴7404年緑の月。
突如現れた二人目の寵愛者は、その頭上に冠を戴くことはなかった。理由は至極簡単なものだ。
 あの忌まわしき儀式後、寵愛者は――レハトは、目覚めることはなかった。

いや、正確には目覚めはした。食事もし、呼吸もし、今もこの世に生を受けている。
ただ、それだけだ。

 あの時から、あのあと目覚めてから、レハトが言の葉を発することはなくなった。目は虚ろで何も映してはおらず、呼び掛けてもぼうっと虚空を見つめるだけだった。

 しかし、こんな状況下に落とし込めた私に処罰が下る事はなかった。恐らく、これからも。当事者がこの状態だからだ。如何に私が実行犯だということが端から見て著明であろうとも、本人が糾弾しない限り、例え自訴しようと意味をなしはしないだろう。

「レハト」

 私はその名を呼ぶ。それが己の名である、と彼が理解しているのかは疑わしい。
 彼…… 彼、と称することが正しいのか私には分からない。恐らく篭りを
迎えていないのであろうレハトの体は、齢十五にしては余りにも細く、女性とも、男性ともつかない不安定な存在だった。
 呼び掛けても反応はない。いつものことだった。彼が横たえている寝台の窓を開ける。朝の爽やかな風が、暖かな陽だまりの匂いを含み一陣吹き抜けて行った。
 レハトを起き上がらせると、そのすぐ側に椅子を引く。食事を摂らせる為だ。

 彼は一人で食事をすることができない。と、言うと恐らく語弊があるだろう。手でカトラリーを扱い口にものを運ぶこと自体はできる。
ただ、食事をするという概念が彼の中から抜け落ちている。生きることにおいて、最も重要な思考が。
 その為、誰かが口に運んでやらなければならなかった。
 特段私にその命が任されていた訳ではない。私がやらなくとも、侍従が親身になって世話をしてくれるだろう。寧ろ、その方が良いのかも知れない。主人を貶めた戦犯が身の回りの世話をしているなど、侍従からすれば気の休まる事ではないだろう。現に、母上から承諾を貰い、侍従に申し出た際、その憎しみの込められた視線だけで殺されるかと思った程だ。
 それでも、私は自らこの命に志願した。こんな事をしても、私の罪が赦されるなどとは微塵も思っていない。贖罪というには余りに都合の良い考えだとも理解している。
「ああ、熱くは…… ないな」
 ただ、何かをしなければ、何かを話さなければ落ち着かなかった。そこに何かを期待している訳ではない。
 一度は逃げ出そうとも考えた。私を糾弾するであろう全てから逃れ、責任を他人に押し付け、逃げることは可能ではあった。
 だが、誰が出来よう。
 己の身勝手な逆恨みで彼の未来は疎か、私の知り得ない過去の記憶――村で過ごしていたこと、母親のこと、そういうものすら一方的に剥奪してしまった。ここで逃げてしまえば、私は怯懦な逃亡者であるあれと同じになる。あれと同じにはなりたくなかった。無責任に城にレハトを放置し、一人のうのうと余生を過ごすなど赦せるはずがなかった。
「……保身に見苦しいな」
 この状況に置いても、私は自らに降りかかる揶揄を正当化しようとしている。罪を償っているのだ、私は決して怯懦な逃亡者などではないのだ、と。怯懦だからこそ、あのような事をしたというのに。自嘲気味に吐き捨てても、反応する者はいない。
 そうこうしているうちに食事が終わった。味気のない、簡素な食事だ。量も極少なく、こんなもので満足できるはずがないと思った。今の彼にそのような感情があるかは定かではないが。口元についたものを拭ってやる間、レハトは何処か遠くを見ているようで、息が詰まりそうになった。
 助けを求めるように視線を動かす。視線の端に、服から伸びる細く白い腕が映った。陽だまりの下で見たならば”美しい”と形容したかも知れない。今はただ、病的な白さとしか映らなかった。
 何か考えがあったわけではない。いや、これ以上見たくない、と無意識に思ったのかも知れない。手を伸ばし、レハトを自分側に引き寄せる。直後に後悔した。彼は何の抵抗もなく、こちらに凭れかかる。それが、儀式後生気の消え失せた彼と重なって見えた。
 離せば逃げる事になる、と咄嗟に思った。今ここで彼を突き放す事は、私が負わせた運命から、私が負うべき責任から逃げる事になるのだと。あれのようにはなりたくなかった。
レハトは小さく細く軽かった。羽のようだ、と言えば聞こえだけはいいかも知れない。虚なのだ、彼にはもう何も詰まってはいない。あるべき未来も、記憶も、何もかも。
 肩に顔を埋めるように抱き締めると、微かに寝台が軋んだ。指先に、腕に力を込める。痛いと思わないのだろうか、苦しいと思わないのだろうか。何も反応はしてくれないのだろうか。……何かを期待をしている訳ではなかった。そんなもの、詭弁だ、建前だ。私はそう思い込みたいだけだ。期待するだけ無駄なのだと、決して返ってはこないのだから、諦めろ、何も期待するなと。本当は、何か反応を返してくれないかといつも期待している。それが無駄な願いだとしても。
「……すまない、苦しいだろう」
 腕を解く。その間もレハトは何も反応を返さなかった。これ以上負担にならないよう、体を横たえさせようとしたとき、冷たい風が体を撫でて行った。窓の外をみると、いつの間にか空が薄暗く陰っている。雨が降るのかも知れない。
 窓を閉めようと椅子から立ち上がると、何処かでかたんと音がした。まさか、と思いレハトを振り返る。微かに期待していたが、同じように横たわっているだけで、変わった様子はなかった。
「……気のせいか」
 未練がましい思いを振り切れたならばと夢想しつつ窓へと向かう。すると、またもやかたん、と音がした。先程よりも幾分はっきりとしており、窓からしたのだと気付く。
護衛のモルに緊張が走った。相手を刺激しないよう、慎重に窓に近づいて行く。と、黒い影が踊った。
「っ、モル待て!」
 モルがまさに剣に手を掛け、抜き身を放とうとしていた。慌てて静止を命じると、剣の切先が影の鼻先寸でのところで止まる。黒い影の正体は、闇のような毛色をした猫だった。こちらを窺い、みぃみぃと不安げに鳴いている。取り立てて襲って来る様子もなく、安堵し掛けた時だった。
『黒猫が目の前を横切ると不吉なんだってさ』
 ふいにヴァイルの言葉が脳裏を過ぎった。
迷信、下らない噂だと切り捨てるのは容易だ。しかし、私の中に孕んでいた何かが急速にその体積を増し、我が物顔で居座って行った。早く、早く猫を追い払わなければ。
「モル、その猫を」
 追い払え、と口にする事ができなかった。何が起きたのか。理解が追いつかず、体が硬直する。一層冷たくなった風が、少しの雨と共に容赦無く私の体を蹂躙した。
 私のすぐ後ろ。決して返るはずのない、待ち望んでいたそれ。
「……あ」
 あり得ない。あり得るはずがない。きっと私の夢想が幻聴を呼んだのだ。認められなかった。ずっと待ち望んでいたそれを、私は認めることができなかった。
 酷く体が重い。きっと雨に当たったせいだろう。どうせ、空耳だ。そう願いながら振り返ると、こちらを…… 正確には、窓に佇む猫を見つめる彼がいた。目は光を取り戻したように大きく見開かれ、ただ一点を確かな瞳で見つめている。
「……レハト」
 緩慢な動作で近付く。たった数メートルの距離が恐ろしく長く感じた。どこかで恐れていたのだ。私が聞いたものは幻聴で、私の見たものは幻覚ではないのかと。ありもしない希望を抱き、現実を目の当たりにした際、私はどうなるのだろうと。それは確かめて見なければ分かりはしない。
 足取りは酷く重かった。それでも覚悟を決め、その顔を覗き込む。――消えてしまう。そう思い困惑した。レハトの瞳はまたも虚空を映そうとしている。光が消え失せようとしている。そんなことさせるものかと、掌で顔を包み呼び掛けた。今お前は言の葉を発しただろうと、光を取り戻しただろうと。
 一体どれほど呼び掛けていたのだろう。私がそう感じるだけで、案外時間は経っていないのかもしれない。と、雨音に混じり、何かを引っ掻くような音がした。……猫。そうだ、こいつは猫に反応したのではなかったか。
 思えば、以前こいつはやたらと猫に執着していたように思う。より正確にいえば、猫の親子に。すでに失われた母の面影を、自然と猫に重ねていたのではないか。無論、私の勝手な憶測であって、確証など何処にもありはしないのだが。
 もしかしたら。そう、一縷の望みにかけてみてもいいのではないか。首を回し窓を見ると、黒猫はそこが己の居場所であるとでもいうように静かに佇んでいる。雨が毛に玉となって溜まり、微かな日の光を返し煌めく様子が見て取れた。
 レハトの体を慎重に抱き上げる。禄に食事も摂れず、適度な運動もしていない彼は、痩せ細っている筈だった。服から伸びる腕の異様な細さや白さも、十二分に理解している。しかし、その体は不思議と柔らかく、人の温もりがした。それが、身勝手だと思いながらも嬉しかった。
 窓辺に近付くと、レハトが猫に気付いたらしい。彼の目線に合うように少し屈んでやると、猫に向かいそろそろと手を伸ばした。私には決してしなかったことだ。その反応を待ちわび、来る日も来る日もレハトのもとに通い続けた。いつか、いつか反応してくれると。それがよもや猫に先を越されるなどとは想像だにせず、遣る瀬無い気分になったのも確かだった。
 それでも、何かが変わるのならば手段は問わない。レハトの指が猫の背に触れる。触れられた猫が逆上するのではと思わなかった訳ではない。縋れるものならば縋りたい、それが本音だった。
「……ねこ」
 笑顔、なのだと思う。口角が微かに上がった気がした。気休めかもしれない。都合の良い解釈かもしれない。だが彼は確かに言葉を発した。いつぶりか分からない声を。最後に聞いた時に比べ、掠れ声量も落ちていたが、鈴のような響きだと思った。
 もう役目を終えたとばかりに、黒猫は窓から降り森の中へと消えて行く。その姿を、視界から消えるまでただ呆然と見送っていた。

 黒猫が森に消えてしまうと、私とレハトの間に不自然な静寂が現れた。聞こえるのはただ雨と風の音ばかりで、いつもそうであった筈なのにどうにも胸が落ち着かない。時折強さを増した風雨が、窓を打ちたがたと音を立てている。
「ああ、閉めなければな」
 窓辺が大分雨で濡れてしまった。後で拭かなければならないだろう。窓を閉め、レハトを寝台に連れて行く。その間、彼は特に反応を見せなかった。
「……猫は、横切らなかったな」
 単語に反応するだろうかと彼を一瞥するも、やはり何の反応も示さなかった。
 黒猫が目の前を横切ると不吉な事が起きるという。ならば、横切らなければどうなのだろう。……全く、何を下らない懸想をしているのか。猫が何だというのだ。いや、一概にそうも言えないか。あの猫がいたからこそレハトの反応が見れたのだ。ここは素直に感謝するべきだろう。得体の知れない猫に胸中で感謝をしつつ、寝台にレハトを寝かせ椅子についた。
 手持ち無沙汰となり、どうしようかと辺りを見回す。作業をすることを想定していないのであろうこの部屋は、とても簡素で調度品もごく質素だ。定期的に掃除もされているというのに、どこか埃っぽい印象を受ける。きっと、住人が住んでいないも同然だからだろう。忘れ去られた住居は以前の記憶を内包したままやがて朽ち果てる。それを証明するかのように、窓の脇にある文机はその卓上に濃い色を落とし、ひとつ淋しげに佇んでいた。
 視線を戻すと、彼がこちらを見ていることに気付く。丸い、それこそ猫のような瞳でこちらをじっと見ていた。また猫でも来ているのかと窓を振り返るも、そこには何の影も見られない。背中にじわりと汗が滲んだ。湿気か、それとも雨で気温が下がったせいか、酷く寒気がする。
「……どうした」
 呼び掛けても答えはしない。が、瞳だけは私を正確に捉えていた。
 こんな話がある。蛇に睨まれた蛙は、身動きを取れぬまま丸呑みされるのだという。食われるという恐怖で筋肉は凝縮し、逃げる思考すら無残に奪い去られていく。まさにその蛙の心境だった。目を逸らすことができず、互いに終始無言で睨めあう。喉が真綿で締め付けられるようだ。息が詰まる。心の臓が警鐘の如く音を立て、じりじりとした焦燥感が私を焼いた。言葉を発しようとも、漏れ出たのは苦しげな吐息だけで声をなしていない。
「――」
 あいつは、なんと言ったのだろう。額から伝った汗が、酷く渇いた口に滲みた。レハトはこちらを見る。ふとすると吸い込まれそうな亜麻色の瞳で、こちらをじっと見ている。こいつは、蛇だ。そして私は。
 居た堪れなくなり、椅子を倒す勢いで立ち上がる。いきなり立ち上がった為か、眩暈がした。足が覚束ず、よろよろと壁に手をつく。頑丈な壁であるはずのそれは、きいと軋んで音を立てた。息を何とか整え、顔を上げ壁を見る。それはどうやら棚らしかった。
 白無垢の部屋に橡(つるばみ)色がよく映える。私の目線より一寸ばかり高い棚には、所狭しと本が並べられており、かなりの冊数のように思える。ほんの興味で背文字を追うと、題名だけでも晦渋な医学書ばかりが揃えられていた。頭に鋭い痛みが走る。そうだ、私はこいつに何をした。タナッセ・ランテ=ヨアマキス、よもや忘れたとでもいうのか。きっと、彼の侍従たちが図書室や市を駆けずり回り集めてきたのだろう。どの本も熟読されているのか、背が擦り切れていた。何かの拍子に本が落ちてきては堪らない。目線を背から逸らし、離れようとした時だった。
 見慣れたはなぎれと小口が目に入る。三方金に赤のはなぎれ。こちらに小口を向け、他の本とは異なり横倒しになっている。雨の音が強まった気がした。本に恐る恐る手を伸ばす。指先が震え、思わず取り落としそうになる。手にとった小豆色の表紙には、はっきりと名が箔押しされていた。

――著 ディレマトイ

「……何故」
 何故ここにこの本があるのか。いや、私の著書自体は城の図書室にもある。あること自体は何ら不思議ではない。しかし、何故この部屋にある。レハトはつい先刻まで動くことは疎か、喋ることすらままならなかったではないか。それとも、侍従が読み聞かせでもしていたというのだろうか。こんな、稚拙で、身勝手な、作品とも呼べぬものを。一体何の為に。場違いな代物を見つけ困惑していると、かちんと硬く鋭い音が響いた。目の前にあるのは棚と、手に持っている本だけだ。私が手にした本以外に物が動いた様子はなく、恐らく本に挟まっていた何かが落ちたのだろう。何の理由があって本に挟んでいたのかは不明だが、もしかしたら呪い(まじない)の一種なのかもしれない。非現実的な呪いに頼らなければならないほどに、事態は困窮していたということか。己の所業を恨みつつ、床に落ちたらしいそれを拾おうとし驚愕した。
 世界から音が消えた、と思うのは私が可笑しくなったのだろうか。先程までうるさく聞こえていた雨の音は遠く、感覚も非現実的だった。視界がやけに狭く、白くぼんやりとしている。ただ、それだけが白昼夢の世界ではっきりと輪郭をかたどっていた。

――タナッセ、これ買って

「何故、まだ、持っている」
 落ちた衝撃で少し欠けたのか、床には小さな破片が僅かな光を返し散らばっている。その大きい方。見覚えのある雫の形に、鈍い朱色。それは、私がやつに市で買ってやった、安物の耳飾りだった。
 呪いなどではない。きっと、本に挟んでいたのではなく、近くにあった耳飾りが本を動かした拍子に落下したのだろう。随分と使い込まれたのか、それとも長い間持ち主に着けられることなく朽ちたのか。所々の塗装が剥げ、記憶よりも色褪せて見える。まるでこの部屋のように、過去を内包されたまま時が止められたような妙な心境を憶えた。……取ってあったのだろうか。あんな、昔の安物を。思い返してみても、私とレハトは険悪そのもので、これを後生大事に取っておく義理など到底浮かばない。もし私ならばどうしただろう。
 そう考えている内に、もしやこれは迂遠な復讐なのではないかと気付く。彼が身につけていたであろうものを、私の目につくようわざわざ詩集のそばに置き、己のしでかしたことを省みろと。罪悪感に苛まれ、死ぬまでその運命を背負えと。朽ちた色は現在のレハトを物語るようで、なるほど私には効果覿面らしく、胸に酷く焦燥が募った。侍従辺りが好んでやりそうなことではある。それだけ恨まれているのだろう。
「……」
 あいつは先程何と言ったのだろうか。欠けて色褪せた耳飾りを床から拾い上げると、金色の鎖がしゃりと軽い音を鳴らした。
 椅子に戻ろうと息をつき振り返ると、レハトはまだ私を凝視していた。やはり、猫のような丸い瞳でこちらを正確に捉えている。思わず手に力が入り、詩集と耳飾りが擦れて微かな音を立てた。
 椅子に向かう間、少し考えていた。耳飾りが迂遠な復讐だというのは私の考え過ぎだろうか。詩集もたまたまあっただけなのだろうか、と。立ち止まり改めて詩集を見ると、先程とは違った印象を憶えた。三方金の小口は擦れており、何か紙のようなものが所々に挟まっている。背文字ばかりを気にしていたが、どうやら背も大分擦れているらしい。棚にあった医学書と同じく、簡潔に言えば熟読された様子だった。よく見知った内容であるはずの本が、私の知らない何かであるように感じ恐ろしかった。同時に、その何かを知りたいという好奇心もあったのは否定できない。恐怖と期待に鬩ぎられながら、恐る恐る本を開く。何度も繰り返し開いたのか本ののどは開ききっており、自然とページがその白面を現した。
 あいつは、何を思っていたのだろう。彼はこの本の著者が私だと知っていたのだろうか。己を追いやった憎き相手だと、知っていたのだろうか。開かなければ良かった、知らなければ良かった。私は先程の後悔を忘れ、自ら土足で踏み込んでしまった。現れたページには、詩に添えるように小さな文字が書き込まれている。丁寧な字だった。焦燥と後悔の中文字を追う。
 ……曰く、己と同じだと。
 ……曰く、苦しみが分かると。
 ……曰く。心が綺麗なのだろうと。
 凡そあいつの言葉とは思えない文字が続いた。これは本音だろうか。……きっと、本音なのだろう。これは誰に向けた言葉でもない。誰かも分からない著者に共感した、あいつの心そのものだ。城で生きるために交わす美辞麗句でも、誰かを貶める為の悪意でもない、本当の。恐らく、栞目的であろう紙を挟んだページをめくっていく。どのページにも、丁寧に所感が述べられていた。読むほどに私と彼があまりにも似ている気がし、胸が締め付けられた。境遇こそ違うものの、考えていることや感じたものは同じだったのだろう。きっと、誰にも明かす事なく、本の奥にひっそりと仕舞い込むはずだったであろうレハトの本音。それを思わぬ形で知ってしまった私は、どうすることもできずにただ立ち尽くしていた。
 雨が降っている。ごうごう勢いを増した雨は、全てを洗い流すように、ただひたすらと降っている。全ての音は遮られ、この世に存在するのは私とレハトだけのように感じた。

 あいつは猫のようだった。いつでも生意気で、小賢しく、機敏で。何かを見つけては興味を示し、かと思えば飽きてどこかへ行き。天邪鬼で、移りげなやつだった。貴族共の笑顔の裏の美辞麗句。好奇と悪意に満ちた視線。無責任な揶揄や嘲謔。そんなものを見下しているよりも、他の誰とも違う存在の、あいつを見ている方が良かった。少なくとも、話の通じない化け物よりも、会話ができるだけましだと思っていた。

 しかし、それだけだ。それ以上でも、それ以下でもなく、それはあいつも同じものだと思っていた。決して餌付けをしたつもりなどなかった。そう思っているのは、私だけなのか。それともこれは、自惚れなのか。あいつが私に懐いているなど、今の今まで想定したこともなかった。だからこそ、後生大事に気紛れで買ってやった安物の耳飾りを今も持っているなど思いもよらなかった。詩集に、思いを馳せているなど思いもしなかった。自惚れだろうか。

 いよいよ雨が、風を伴い激しく唸る。時折巻き上げられた小石や葉が窓に打ち付け、鈍い音を立てた。まるで私の中に渦巻く困惑のように、一向に留まる気配を見せない。この雨はいつまで続くのだろう。

 紙面を軽く撫でると、ざらりと紙の質感がした。湿気でたわんでいるのか、かすかにインクの匂いがする。この詩集に認めた詩は、私の胸の内を明かすものだ。この世界に、ディレマトイが。タナッセ・ランテ=ヨアマキスという男が確かにいるのだという。風の音に混じり、何処からか落ちた水滴が、薄く文字を霞ませていった。
「お前は…… 馬鹿だな。どうしようもない大馬鹿者だ」
 この言葉がレハトに聞こえているかなど分からない。不意をついたように、そう自然と呟いていた。己の言葉が俄かには信じ難く、思わず自嘲する。私は何を考えているのか。
 詩集から目を離しレハトを見る。大きな丸い目が一対、こちらを捉えていた。何かもの言いたげに、じっと。呼ばれている気がする。その瞳に、こちらへ来いと。空想めいた思いが脳裏を過る。急がなければ。徐に向かう足が徐々にその速度を増した。椅子に、いや、彼の元へと。
 早足ならばすぐに到達する距離だ。心を落ち着かせる余裕などなく、見る間に距離が縮んだ。すぐ目の前に彼がいる。焦燥がまたもじりじりと私を焼いた。手に持っていた詩集と耳飾りを静かに机に置く。雨の中の僅かな光で、耳飾りは鈍く色を返した。逡巡し躊躇いながらも、白く痩せた頬に触れようと腕を伸ばす。まさに触れるか触れないか、その直前だった。
――壊れたりしないだろうか。
 腕が止まった。突然私の中に降って湧いた疑問に、己の事ながら戸惑うしかなかった。私などが触れたら瓦解してしまわないか。彼を狂わせる事にならないだろうか。もう幾度となく触れてきたというのに、どうにも恐ろしく感じた。今までは「介抱」という免罪符があったのだ。こいつに近付いてもいいのだと、触れてもいいのだという、確固たる理由が。しかし、私が今から行おうとしている事は許されるであろう範囲を逸脱している。……している、はずだ。
「……何を」
 何を恐れているのだろう。先程も、レハトを引き寄せこの腕に抱いたというのに。私は何を恐れている。
 首を振り、そっと手を伸ばし彼の頬に触れる。と、己の指先が震えている事に気付く。全くどうしようもない。溜息に混じるように言葉が抜けて行った。
「レハト」
 彼は応えない。
「……レハト」
 ただ瞳だけがこちらを見ている。大きく見開かれたそれの表情は読めず、漠然とした不安が募る。堪らず彼の腕を引いた。いとも容易く傾いた身体に、掻き抱くよう腕を回す。先程よりも、強く。
 介抱している、償うべきである。それ以上の感情など持ち合わせておらず、持つべきではないと思っていた。持ってなどいないと思っていた。一体何度繰り返すつもりだろう。
 生を受けている確かな温もり。痩せながらもどこか柔らかい肢体。華奢な体躯。子供のような、それ。
どうしようもなく、愛おしかった。最早どんなに己を偽ろうとも、溢れ出た想いは隠しようがない。
 詩集に書き込まれたもの。こいつが感じていた事。その全てが嬉しかった。私の詩など、己のたけをぶつけただけの稚拙で幼稚なものでしかない。詩集はそんな戯言を寄せ集めた戯書だ。そうとも知らず、ただ無用に褒め讃えるだけの貴族達に反吐さえ出た。しかしこいつは違った。私が求めていたものを、汲み取っていた。
 同じなのだ。こいつも、私も。それは徴のあるなしではなく。レハトは二人目の寵愛者であり、私は徴無き王子だ。その特殊な境遇ゆえ、虐げられ、時には利用され。私は王になる事ができない。しかしこいつもまた、額に煌々と輝く徴によって、なす事全てに制約を科せられている。まるで湖面に映る月のように、天と地に分かれながらも正反対に同じなのだ。足掻こうとも、己の力ではどうにもできない無力で哀れな駒という意味では。
 彼がどちらの性別なのかは分からない。それでもどうか、許して欲しい。
 震える指がレハトの髪をそっと撫でた。胸から伝わる鼓動も、桜色の唇から漏れる息遣いも。まるで己のものかと思う程鮮明に、克明に脳裏に焼き付けられて行く。
「……」
 土砂降りの喧騒の中、雨に濡れたようなような瞳が。揺蕩う私の姿を静かにその中へと映していた。
 そうしてどれ程経ったのか。外では、次第に勢いを弱めた雨がしとしとと静かに降っている。その空気で冷えた部屋の中、私の体は未だ焼かれんばかりに熱かった。ほんの数刻触れていただけだというのに、もう何時間もそうしていたかのような感覚。浮遊感にも似たそれは、忽ち私の全身を巡り心地の良い微睡みとなって押し寄せた。
「……レハト」
 もう一度腕を絡め抱き寄せる。今度は優しく壊れものを扱うように。背に手を沿わせ撫でていく。レハトの頬が触れている部分がほんのりと温かく心地が良い。ずっとこうしていたいなど、凡そ私らしくもないことをぼうと思った。
 ……私は知っている。彼の本心を知っている。そして、言の葉を発することも。ただ待ち望んだ。来る日も来る日もその時を待ち望んだ。結果、私によって引き起こされたものでなくとも、彼は口を開いた。どうか。どうかもう一度。
「レハト」
 どんな言葉でも構わない。だが、もしも。望んでも良いのならば。
「……レハト」


「…………たなっせ」


 雨は上がる。

 日の光を受けきらきらと眩く水滴は、真っ直ぐに柔らかい地面へと降りて行く。
 鳥達が翼を振るい、明るい空へと飛び立つ。
 雨の匂いのする風に乗り、何処からか猫の声が耳に届く。

「……おはよう」

 朝日に照らされる彼の顔は、あの黒猫のようなくすぐったい笑顔だった。
posted by ロベリ at 13:20| かもかて小話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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